以前、体罰は教師の愛だという言葉を元に記事を書かせてもらったのだが
それに対して、誤解があっちゃいけないなと思ったので、補足的にも書かせてもらおうと思った。
そもそも、体罰が教師に許可されていないのは
生徒と教師という立場の違いから、教師の発言権が強い部分にあると思う。
人間というのは、上の立場の人間からの言葉には逆らいづらいものだ。
昭和世代であれば、これはしっかりと確立されていたからこそ
体罰体罰と騒がれることもなかったのだ。
しかし、最近では教師の発言権が弱くなり
子どもたちの反抗を抑えられなくなってきている。
そんな状況の中で、果たして悪いことへの罰が体罰だというのだろうか?
勿論、理解ができているのであればそれ以上言うこともないのだが
子どもたちがそれで理解できるのだろうか?
最近、辺獄のシュベスタという漫画を読んだのだが、
カッとなりやすい主人公に育ての親がした仕打ちを紹介したい。
家族をバカにされ起こる主人公
その後、親は他の子どもと遊ぶことを禁止して
自分とイースター・エッグを作ることを提案する。
そして
泣き出してしまう主人公
もうどんなにしても卵は元に戻ることはないだろう。
これが教育だと私は思っている。
どんなに辛いことも人は自分で経験しないと学べない。
自分の行動がどういう結果に結びつくか
それを子どもたちは知らないのだ。
木に登って落ちたら?
火のついたコンロに手を触れてしまったら?
なってからでは遅いからこそ、声を張り上げてこるだろう。
どんなことになるか身を持って体験させるために手をあげる必要もあるだろう。
学生にとって、教師と接する時間は短期間とはいえ家族より多いのだ。
これを教えるのが、本来の目的じゃないのだろうか?
単純に暴力だけが目的の教師は、本当に少ない
それなのに、そればかりが目立って本当に子どもたちのことを思っている教師が窮屈な思いをする。
いじめが起これば教師の問題
注意・指導をしても教師の問題。
こんな状態で、果たして真人間が育つのか?
私は絶対に無理だと思う。
時に千尋の谷へ突き落とす覚悟がなければ、人を育てることなどできない。
子どもを守るために、子どもを泣かせる覚悟があなたにあるだろうか?
教師も教師で、時には自分がその行動を取らなければならないことを覚悟しなければならない。
自らの教え子を守るためにだ。
今の親や教師には、圧倒的にその覚悟が足りない。
子どもを守るために自分が傷つく覚悟が圧倒的に足りない。
そういった意味で、「体罰は必要」だと思うということだ。
必要以上に傷つける必要はないが、必要なときには振るわなければいけない力なのだ。
勿論、言葉での暴力だってある。
そういう心ない言葉を言ってしまう前に、平手打ちですめばいいと私は思う。
悪いことをしたら、悪い!
それを理解させるために、愛の鞭が必要な時がある。
今度の高畑裕太の事件にしたって
親の責任だと攻め立てるだけではなく、自分はどうなのかを振り返ってほしい。
私としては、高畑淳子にしたって、自分が傷つくことを想像以上に恐れている。
記者会見も見たが、「息子は本当に悪いですけども、私は関係のないことです」と
言っているようにしか見えなかった。
結局のところ、息子からも世間からも愛されたい母親であるのが見えてしまうのだ。
以前にもそういうことがあった時に、母親は「なぁなぁ」で済ませたのだろう。
この時に、息子に嫌われる覚悟が出来ていなかったからこその今なのだろうと思うと
芸能人ですら、こういった覚悟が不足していることが判るのだ。
子どもを大切に想うのであれば、時には嫌われる覚悟を決めなければならない。
暴力でもなく、虐待でもなく、子どもを思う気持ちの現われとして
愛のムチという言葉を今一度考える必要があると私は思うのだ。
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