いじめ問題は深刻になるばかりで、そのニュースを聞かない日はないくらいだ。
なぜこんなにも蔓延しているのかと言えば、
表面上は対策がどうのといいことばかりを言っているが
裏ではなにもなされていないことが上げられる。
そも日本のいじめ問題は、まだ「村」や「集落」が多かった時代からの事である。
そのため、多くの人が「あって当たり前」と考えている。
この根本から変えていかなければ、絶対になくならない問題だと私は考える。
攻撃は人の本能
そもそも、いじめと言うものは本能的な部分が大きな要素になる。
生き物には本能と言う生物としての共通目的を持っている。
中でも生存本能や防衛本能は時に理性を凌駕してしまう。
いじめは、この防衛本能の過剰化が引き起こすものであると推察する。
防衛本能が働く時というのは、命の危険はもっともだが、ストレスに対しても働くことが言われている。
ストレスを発散させるのに効率の良いことは、ストレスを力に変えて発散させることだ。
だから、物に当たったり、近くの標的に対して攻撃的になるのではないだろうか。
それが次第に満足感へと変わって行くと、行動は更にエスカレートして行く。
日本古来からのいじめ
冒頭でいじめ問題は古くからあると書いた。
それよりも前に、いじめの原型となるものはあったのだろうが、「集団で個に対して攻撃する」と言う風潮が色濃く伺えるのは「村八分」や「部落差別」と言ったものではないだろうか。
そも「村八分」や「部落差別」の原型においても、人間の防衛本能が引き起こした集団ヒステリーのようなものではないかと思う。
昔は村全体を外敵から守ったり、外敵から守ったりと言う風潮が強く集団を守るためにと言う大義名分を掲げての行為であった。
次第にそれは脅迫へと変わって行く。
〇〇をしたら村八分だ。
どこどこの部落と付き合えうのはやめろ。
そうやって、案に迫害する事を指して使われるようになって行く。
社会的制裁がなくならなければ、いじめ問題はなくならない
いじめの原点となっているのは社会的制裁だ。
犯罪を犯せば、ニュースで個人情報がばら撒かれ「社会的制裁」を受ける。
だが、これは加害者家族に対する攻撃の合図にされてしまいがちだ。
確かに国民には知る権利があるが、攻撃する権利はないと誰も教えてくれない。
よって世の中の大人が社会的制裁を大義名分に誰かを攻撃すると言う構図が出来ている。
するとそれを見た子供は、それを正義だと信じる事で人を攻撃することに躊躇いを感じなくなる。
こうやって、脈々といじめは受け継がれて行くのだ。
最近の子どもは痛みを知らない
子どもが犯罪を犯すとかならずと言っていいほど使われるのが「未成年の凶悪化」という言葉だ。
私はなにも凶悪などではなないと思うのだ。
強いて言えば、純粋過ぎる。単純過ぎる。そう言った言葉の方が正しいのではないだろうか。
こう言ってはなんだが、私は家族と喧嘩をする時に手を出したりすることは当たり前だった。
もちろん、本気の喧嘩だから顔が腫れたり血が出たりすることもあったが、これ以上はダメだと本能的に回避することが出来た。
思えば私は何が悪いことかを痛みをもって覚えたことの方が多い。
それ程に感情を育てるためには「痛み」を伴わなければならないものであると私は考える。
だが最近の社会はどうだろうか。
体罰・虐待と言う言葉で必死に子供を守ろうとする。
それ自体は素晴らしい事だが、守ることだけが本当に教育と言えるだろうか。
可愛い子には旅をさせろ
Spare the rod and spoil the child.(鞭を惜しめば子どもはダメになる)
昔からある諺にもある通り、時には守らない事も子どもの教育に必要な事だ。
私は子どもの凶悪化などという言葉を嫌悪する。
子どもは単純に純粋で、教えてくれるものが居なければ最大限やってしまうものだ。
親や教育者の怠慢を子供に押し付ける凶悪化と言う言葉のあり方を考えて使ってもらいたいものだ。
まとめ
いじめの問題は子どもの問題ではない。
むしろ大人こそが自分の姿を見つめなおさなければならない。
大人になると「自分は大丈夫」とか「私には常識がある」と思ってか誰もが子どもに責任を押し付ける。
子どもが何を見て成長するのか。
今一度考えて見てはどうだろうか。
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