1938年岡山県の集落で類を見ない殺人事件が起こった。
犯人は30人を2時間のウチに次々と殺してまわり、この事件は犯罪史にその名前を残すことになる。
「津山事件」
津山30人殺し(犯人の自殺も含めると31人殺し)とも呼ばれるこの事件は、何故起こってしまったのか…。
津山事件は何故起こってしまったのか
津山事件の背景には、日本の陰惨とも呼べるべきいじめの歴史が関係している。
犯人である都井睦雄は、家族の結核や自身の徴兵不合格を受けて、村から村八分のような扱いをされていた。
そのことに不満をつのらせていた都井睦雄の精神状態は如何なものだったか。
事件が起こってしまうことは想像に難くない。
事件はこうして起きた
都井は凶器を準備すると、警官の巡回のパターンを調べ上げ、
警官の見回りのない時間に送電線を斬ると、早速行動に移った。
頭には鉢巻をして、そこに懐中電灯を二本差した。
手に猟銃。腰に日本刀。
異様としか言えない出で立ちで、都井は村を襲撃した。
都井は家に押し入ると、問答無用で猟銃で撃ったり、日本刀で切りつけた。
都井は総勢で28人を即死させ、後に自身も自殺した。
重症を負わされた被害者も後に絶命し、都井の殺害人数は30人になった。
この間わずか2時間のことである。
子どもからは人気のある人だった
都井はよく子どもに小説の読み聞かせなどを行っていた。
周囲の大人は子供に対して都井とかかわらないように言い含めていたが
生き残った人の中には、都井のことを擁護する人もいるくらいであった。
都井の一家が実質村八分であったことは、周知の事実であったようで
以前組まれた特集においては、都井睦雄も被害者であったのではないかと言う証言もなされた。
都井の遺書
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。— 「津山事件報告書」より都井睦雄の遺書(犯行直後の興奮状態での遺書。誤字などあるが原文のままとする)
この遺書を見る限り、冷静な判断が出来なかったというわけではないようだ。
人名もチラホラと伺えることを考えれば、長期的な計画の末に犯行に至ったのではないかと推測できる。
都井は犯行の際に助けてくれと懇願する人に
「そこまで命が惜しかったら生かしてやる」や
「お前は自分に良くしてくれたから生かしてやる」と言った事を話していたようだ。
この遺書をしたためた後に、都井は自らの心臓を撃ち抜き自殺している。
八つ墓村のモデル
この事件は、聞いた人がミステリー小説好きならばピンとくるかもしれないが
横溝正史著書:八つ墓村のモデルにもなっている。
横溝正史はスケールの大きな伝奇物を書こうとしていた頃に、この事件を知り
書き出しとして使用するに至った。
しかしながら起こった地方はわざと岡山からは遠ざけていた。
まとめ
津山事件は日本の風習や偏見が招いた事件だったといえるだろう。
私もこの事件を知った直後は、心底震えたものだ。
と言うのも、私は津山地方ではないが岡山に住んでいたことがある。
そこも大きな場所ではなく農家ばかりの世帯数の少ないところだったからだ。
八つ墓村の名前は知っていても、それにモチーフとされた事件があったことや
日本での大量殺人事件があったことをしるものは少ない。
この事件は、忘れてはいけない事件である。
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