「いただきます」「ごちそうさま」を言う人は何も考えてない人と言うタイトルで投稿された記事を見て、私はひどく遺憾に思う。
もしこれが炎上商法を狙ってのものだとすれば、その試みは大成功だろうなとすら思うレベルだ。
”http://cakes.mu/posts/16805″
記事は、「いただきます」「ごちそうさま」を言わない人は恋愛対象から外れると言うことを批判して、その上でそう言う人たちは何も考えいないと批判している。
個人的には、感謝の気持ちとうを聞こえないくらいささやかな声で言うことへの批判としては分からないでもないのだが、恋愛とか何も考えていないと批判するのは如何なものかと思う。
「いただきます」「ごちそうさま」は感謝以前の挨拶である
「いただきます」や「ごちそうさま」を感謝の言葉として捉えている人は多いと思う。
それは人間的に作っている人や命をいただくことに感謝の言葉としてと言うのがあるし、子どもの時からの刷り込みで言っている人がいる事は間違いないだろう。
それはその人の人格とか性格とかの話ではないと言うのが私の考え方だ。
むしろ私としては、食事の開始と終わりを明確にする為の挨拶である。
私は食事の時間と言うのはとても楽しい時間だと思っているし、誰かと一緒に食事をすると言うのは素晴らしい時間だと思っている。
だから「いただきます」その時間を明確にして存分に楽しむ為の挨拶で、「ごちそうさま」はそのお店を後にしたり、次の行動へ移る為の自分の中のルーティーンであると考えている。
ただ食べると言うのは生きると言う行為でしかない。それならば何を食べても感動などないだろう。
何も感じずに食事をすると言うのはなんとも悲しい事だと私は思う。
恋愛の基準にはならない
食事の挨拶が恋愛の基準となるかどうかはすこぶるどうでもいい。と言うかそんな事で恋愛対処を決めているんだったら長続きするはずもないだろう。
食事の挨拶云々で卿が削がれているのなら、そこからの時間を楽しめるはずもない。
楽しめない相手と付き合ったとして、その後楽しめるかと言われれば首を横に振る人の方が多いだろう。
それよりどうだろうか。
私が先ほど言った食事=楽しい時間の開始の合図とすれば、これからどんな話をしようかや味はどんなだろうかと楽しみが広がってくる。
それをみんなで共有する時間と解釈すれば盛り上がらないわけがない。
食べ物と言う概念に固執しているから、挨拶に関して考え方の違いで人を判断する。
時間という漠然な空間を明確にすると言うだけで言う人であれ言わない人であれ納得出来るのではないだろうか。
もしも感謝の言葉を述べたいのなら帰るときに言えばいい
問題の記事でも言っていたが、感謝の気持ちを表したいのであれば、直接言えばいい。
さすがにシェフを呼ぶと言うのは、すこし気取っている感があるが…
だから私も相手に美味しかったと言う意味でのごちそうさまを言うときは直接聞こえるように言うようにしている。
その方が相手も気持ちがいい。
そして、これは豆知識なのだが、シェフを呼び出すと言うのは一見とても良さそうな行為に見えるかもしれないが、相手をする時間が取られると言う事はシェフの仕事の邪魔をしている事になる。
分かっている人からすると、大変失礼な行為に当たるのだ。
もっとも記事中で「こちらはお金を払っているのだから、美味しい料理を提供してくれて当たり前」などとのたまう人には言っても分からないだろうが。
まとめ
食事の挨拶であそこまで炎上させる記事を書けるのはもはや才能だとも思うが、それがニュース記事に取り上げられるほどのものかと言えばそうではないだろう。
まして、人を判断する材料でもないし、言った言わないと言うのはその人自身の考え方に由来する。
それを恋愛対象とまで棚上げできるのはすごい事だ。
ただ常識として、お金を払ってるからとか言っても聞こえないからなんて考え方は本当に寂しい考え方だ。
私は胸を張って言うけれども、元来食事は楽しむべき事柄なのだ。
その中でも、誰かと一緒に食事をするのはこれ以上にないくらい楽しむべきだろう。
だからこそ、挨拶で明確に時間を区切るのだ。
目一杯楽しむために。
コメント
「いただきます」と「ごちそうさま」は子供の頃から言う習慣がなかったので、
たまに人と集まって声を出すのが恥ずかしいです。夕飯を母が作ってくれるので、食べ始めるときには「もらうよー」と声をかけるだけです。
それも一つの挨拶ですよ^^
正直なところ、言う言わないじゃなくて、その時間を自分が楽しむためのスイッチみたいなものですからね!!