桂歌丸師匠に続き桂文枝師匠もアキラ100%に苦言を呈したことが話題になっている。
正直な話で言えば、これはお笑いという世界というよりかは芸能の世界の順応できない人のわがままだと私は思う。
なぜそう思うのかというのは「芸」と言うのは、話すことだけじゃなく例えば高橋名人の1秒間に16連打だって確かな芸だと私は思う。
芸と言うのは「技」が人に見られて認められた言い方だと思うわけだ。
日本のお笑いの多くは「喋り」によるものが多い。
漫才・ものまね・落語
落語は笑いという部分に関しては私なんかは「笑い」でくくるのはいかがなものかなとも思うのだけれど、それは後で後述しよう。
しかしながら、海外でのパフォーマンスというのは肉体を使ってのものがほとんどと言ってもいいくらい。
シルク・ドゥ・ソレイユもそうだし、が~まるちょば等言葉を使わないパフォーマンスを披露する人のほうが海外での活躍が目覚ましい。
そう言う部分から見れば「芸」一つにとっても日本はまだまだ古いんじゃないんだろうか…。
芸が笑いに一括りされていると私は思う
芸人という言葉は基本的にお笑い芸人を指し示している。
そこから転じて日本のパフォーマーと言えばお笑い芸人という見方が大きい。
しかしながら冒頭でも言ったけれど「芸」と言えば「技」が人に認められた言い方だ。
日本の芸能の中には様々な世界がある。
それは「道」として言われている。
「剣道」「柔道」「花道」「茶道」他にも様々な道が存在するけれども、こういった道に通じるものが芸として認められていく。
そんな中で「お笑い」だけが芸としてもてはやされているというのが現実で、それは日本の他の技術に対して侮辱であり傲慢なんじゃないんだろうかと私は思う。
落語は「笑い」だけではない
桂歌丸さんも桂文枝さんも落語の師匠。
その中で、「落語」=「笑い」という構図になっているのはどうなんだろうと思う。
古典芸能という部分をおおきく注視している私からすれば、落語と言えば古典芸能。
つまりは「笑い」だけでない。
「人情」「怪談」「新作」
いろんなお話があって、それで人が感動する。
笑いは感動の一つの部分でしかないのに、そこだけを大きく取り扱うというのは芸能界のこれからを衰退させていくことだけしかない。
今のような笑いだけが芸能だという認識を持っているのは日本人だけだと思う。
アキラ100%の芸は確かに下品だけれどあれは本当に難しい
アキラ100%の芸というのは確かに下品な芸だと思う。
けれども、それだけに分かりやすい芸でもあると思う。
分かりやすいことを分かりやすく披露するというのは実はとても難しい。
ロボットの腕を上げ下げする動作がある。
人間にはとても簡単な作業だけれども、ロボットは一つ一つモーターを動かしてどこまで上げるかなど細かい部分をやってどうにかこうにか動かしている。
お盆で股間を隠す。これは簡単なことだけれども、それで動き回るのは大変な練習をしなければならないと思う。
下品の一言で片付けるのはたしかに簡単だけれども、ちゃんと芸としてみた時にはそれが人に感動を与えられたかどうかで判断しなければならないと思うのだ。
まとめ
笑いという観点から言えばアキラ100%の芸というのはどこかズレているのかもしれないけれど、芸という部分から言えばアキラ100%の技は芸として認めることが出来る。
逆に、笑いにだけ固執した現状では、日本の芸能という文化は廃れていくとしか言えないだろう。
「芸」という言葉をもう一度見直してみて欲しい。
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