最近は体罰などが怖くて、教師の仕事に支障を来している。
わたしも、小学生の時のトラウマから「先生」という人種は軽蔑している。
そもそも、体罰とはなんなのか
と言う部分が大きな争点になってくると思うのだけれど
私は「理不尽」なことが大きな意味を持ってくると思うんだ。
今の状態では、相手がどんな悪いことをしていても
手を出したほうが悪いということになっているのだが
もし、あなたが拳銃を向けられた状態で
相手を叩いて説得したとして、それが体罰と言われたらどうだろうか?
まぁ、極論だと言われたら極論だけれども
相手がどの程度の悪さをしているかというのが抜けているのだ。
子どもは、痛みを知らなければ
良い悪いを判断できないと思うのは私の持論だけれども
子どもというのは、基準がないのだ。
もし火遊びをしていたら
もし高い所に命綱も無しで遊んでいたら
もし怖いもの知らずで怖い人に手を出したら
命の危険がどこに潜んでいるかは分からない。
それでも子どもはやってみたいものだし、それが面白いと思えば繰り返すのだ。
結果として、その子のためになるかならないかを考えた時に
痛みを与えてでも止めたいことというのは出てくるんじゃないか
イジメにしてみても、結局のところそれが悪いと思ってやっている人は居ない。
単純に自分が面白いから続けるし、止められないからそれが悪いとも思わない。
私からしてみれば、いじめをしている子はそれがいじめだとは分かっていない。
それが発覚した時に、責任をすべて取らせるのか平手一発で終わらせるのか
どちらが子どものためになるのかを考えて欲しい。
なんでもかんでも体罰と済ますのではなく
誰のどの行動が悪かったのか それをハッキリさせないと
結局の解決には至らないのだ。
コメント
現実に発生している体罰が、果たして子供のためになっているんだろうか。
空想ではなく、目を見開いてみなければならない。
イジメに体罰が必要と体罰教師は言う。
イジメに対して体罰が現実に行われているのか?
現実は、単に教師は苛立つと殴る。ただ、それだけが、数多い体罰の実情である。
教室で殴るときは、教師の言う指示が実行できないクズ、
忘れ物が治らない、覚えるべき教科内容が覚えられない、
教員は苛立ち、怒声を挙げて殴る。
回数を重ねるにつけ、教員は殴ることに対する抵抗感が薄れる。
殴られる児童生徒はいつも同じだ。より陰湿な、より執拗な暴力を繰り返す。
殴って児童生徒がよくなり、教員自身もスッキリする。これは良いことだ。
部活で殴るときは、勝てない時だ。勝てないことに苛立ち、そして殴る。
反抗できない児童生徒を殴る。殴って指導すれば、強いチームができる。
勝てるチームを作り、教員自身もスッキリする。これも良いことだ。
机上の空論ではなく、実際に学校で行われている体罰とはこの様なものである。
イジメについて言えば、教員の体罰を見習ってイジメが行われているのが実情である。
こうした現実の体罰について、現場教員や教員からなる教育委員会と同様に、
「よし」として認めるのか、「教員の戯言など耳をかさない」として否定するのか、
といった問題である。
体罰をしている教員は、それがイジメだとわかっていない。
子どもと違って、戦後70年、言って聞かせても、屁理屈ばかりで理解できない。
平手一発を認めてしまうことが、どんな事態を招いているのか、
現実に目を向けて考えなくては、何も変わらない。
>>体罰をしている教員は、それがイジメだとわかっていない
なるほど。最もなご意見です。
私の言っていることは机上の空論。これもまた事実です。
私も教師がどのような人種かは嫌というほど味わってきました。
だからこそと言うか、体罰について深く考えてくれる教員・教諭が現れて欲しいとの思いから書いています。
そうそう上手くは行かないかもしれません。
体罰というのはなにも手を挙げることだけではないと思います。
教師の何気ない一言に傷ついたり、人間関係隔たりがあったり。
私の中学生の頃。私はよく授業中に寝ている生徒でした。
その日は起きてはいたのですが、高熱で授業どころではなく机に突っ伏していると
教師が怒鳴ってきました。その後、体調の異変を感じて私を保健室まで運びましたが
いつも寝ているから今日もそうなのだと思ったと言っていました。
私も人間。教師も人間。であればこそ意思の疎通の違いは必ず起こり得ることだと思います。
まぁ、私の方に大きな非があるんですけど、まず疑ってかかるという姿勢自体がどうなのかと。
話はそれましたが、結局のところ体罰云々は目に見えるか見えないかの違いしかありません。
目に見えない暴力のほうが何倍も辛いもののときもあるのです。
秋の遺伝子さんのいう体罰は、私は単純に暴力だと思います。
線引が難しいのはもちろんですが、本当に「危険」が差し迫った時に、拳を上げられるか上げられないかは
教育者として大きな分かれ目になるのではないでしょうか。